concept

MESSAGE

私の使命は
「本物の家づくり」に
気づいてもらうことです。

50年後100年後の未来の子供達のために何を残してあげられるでしょうか。
今を生きる私達にしかできないことがあるはずです。たくさんの回り道をしてようやく辿り着いた「本物の家づくり」。
これに気づいてもらうことが私の使命です。

代表取締役社長 小野寺 健

01いじめからの脱却

「変わりたい!!」
という想いだけはずっと抱き続けていました。

私の子供時代は毛との戦いでした。まゆ毛が異常に太く、小学生なのにひげを生やし全身毛だらけ。そのルックスから付いたあだ名が「ゲジゲジ」。

桜が散る季節になって毛虫が出始めると決まって「ゲジゲジまゆ毛~♪」と誰彼ともなく大合唱。みんなが面白がって私を馬鹿にしてくるのです。

ある日、鏡を見てたら急に腹が立って、「このまゆ毛がなかったら・・・」とまゆ毛を半分剃った時もありました。ですが、逆に剃った部分が青くなって、友達から馬鹿にされるだけじゃなく学校の先生にまで怒られる始末。

当時から人一倍プライドが高かった私は、学校へ行くことも苦痛になり、度々学校を休むようになりました。

そして、イジメられる度に自信をなくしていき、「オレがあいづだったらな~、あいづはいいな~・・・」と、いつも誰かを羨んで自信を持てずにいる、後ろ向きな人間へとなっていきました。

それでも心の中ではずっと、「いづがみでろよ!見返してやっからな!!」と、「変わりたい!!」という想いだけはずっと抱き続けていました。

02将来の夢は、中学教師

自分のように頑張っても報われないでいる子を救ってやれる先生になりたい

将来の夢は、中学教師
私にはもう一つのコンプレックスがあります。

それは、一見賢そうに見えて実は頭が悪いという、そのギャップです。周りの人からはよく「たけし君は頭良さそうだねぇ」と言われてきましたが、実際はその真逆。小学6年間に18回もらえる通信簿の中で「よくできた」はたった2個だけ。ほとんどが「がんばろう」。

通信簿をもらう度に親はため息ばかりついてました。

そんな自分に嫌気をさしていた私は「中学校に入ったら絶対に成績を上げてやる!」と心に強く抱くようになりました。

私には人生で3人の恩師がいると思っていますが、その1人が中学時代に出逢った塾の先生です。先生は何回教えても呑み込みの悪い私に根気強く教えてくれ、少ない才能を見出し、引っ張り上げてくれたのです。その甲斐あって成績も次第に良くなり、学年で180人中30番以内に入るまでになりました。
そうやって、失いかけた自信も少しずつ取り戻すことが出来るようになったのです。

自分のように頑張っても報われないでいる子を救ってやれる先生になりたい」とこの時、自分の夢を中学教師と決めたのです。

03お父さんのようになりたい

何気なしに見ていたテレビ番組が後の私の人生を大きく変えることになります。

将来は数学教師になろうと高校へ進学。理系の大学を目指して猛勉強し、夢がいつしか目標へと変わり始めた2年の夏、卒業後の進路を決める時期になりました。

お父さんのようになりたい

教師になる夢とは裏腹にずっと引っかかっていたのが、親の稼業を誰が継ぐんだという疑問でした。父の背中を観て育ち、「いつかお父さんのようになりたい」と願った子供時代を思い出したのです。誰にでも頭を下げ腰の低かった親父に対し、「なんであんなにペコペコ頭下げでっけ?かっこ悪ぃな」と馬鹿にしていた時期もありましたが、真実は違ってました。

本当は誰よりもお客様を大切にしプライドを持って商売に取り組んでいたこと、そして、いつも楽しそうに仕事をしていた姿を思い出したのです。

「このままでいいのかよ?!」と悩んだあげく、教師になる夢を捨て、経営が学べる大学へ進学することを決意しました。

その後大学へ入り、何気なしに見ていたテレビ番組が後の私の人生を大きく変えることになります。

それは高校生ぐらいに見えるイギリス人学生が、自国の政治や経済に対し、自分の考えをしっかり持って答えている、その姿です。 雷が落ちたような衝撃でした。「オレよりも若ぇくせにこの人達すげぇな!こんな人達と友達になれだらどんな楽しいべな・・・!」、そのような想いが日増しに強くなり、卒業後、イギリス留学することを決めたのです。

04世界ってこんなに違うんだ(古いものが良い?!)

私に「本物をつくる」ことの大切さを気づかせてくれたように感じます。

雷のような衝撃を受け決意したイギリス留学でしたが、実際の動機が不純すぎて本当のことを話しては親の了解を得られそうにないと感じました。

そこで、最先端のインテリアを学んで後々の会社経営に活かしたい、 資金は銀行から学資ローンを組んで帰国後に働きながら返していく、という名目で親には納得してもらい、 大学卒業後、イギリスの首都ロンドンへ留学しました。

毎日が驚きの連続でしたが、その中でも私の価値観を根底から覆す衝撃の事実、それは「モノの価値観」です。
小学生の頃から親にくっついて内装工事の仕事を手伝ってきましたが、古いものを新しくすることが良い事、家は新しいものに価値がある、古ければ古いだけ価値が下がると先入観のように思ってきました。しかし、イギリスでは、価値ある商品であれば新しいものより古いものほどアンティークと呼ばれ価値が高く、それはイギリスだけでなく欧米の国のほとんどが同じ価値観を持ち、どちらかというと日本の考えが世界から見れば珍しいということ。そして、日本も高度成長期に入り、大量生産、大量消費と変わってしまいましたが、モノを大切にする文化が連綿と存在していたということ。

近い将来、また日本もこの考え方に立ち戻る時期が来る、そう身を持って体感することが出来ました。これらの経験は、私に「本物をつくる」ことの大切さを気づかせてくれたように感じます。

05親の会社を潰すわけにいかない!!

「親の会社を潰すわけにいかない」、まさにその一心だけで必死にやっていたように思います。

イギリスから帰国した翌月、元気だった父が脳梗塞で倒れました。幸いにも体に障害は残らなかったためすぐには会社に戻らず他社へ入社しました。他社のノウハウを自社経営に活かそうと考えたためです。数ヶ月後、たまたま実家に帰ったある日、母から「戻ってきてほしい」と言われたのです。詳しく聞いてみると、父は脳梗塞になった後、物忘れが激しくなり仕事に支障をきたすようになっていたのです。
そして、創業者のその姿に不安を感じたのか、30年以上父の右腕として会社を切り盛りしてくれた部長も職人を束ねていた社員もこぞって辞めるというのです。精神的支柱だった幹部社員2人が辞めることが残った社員にどれだけの影響があるか、まさに倒産の危機と感じ、会社に戻ることを決意したのです。25歳の冬でした。

翌年26歳で会社を継ぎ、「オレが何とかしなきゃいけない!」その一心で必死にやってきましたが、会社では社長でも世間では若造です。誰も相手にはしてくれませんでした。父が創業した会社は内装工事店で、石を投げたら内装屋に当たるんじゃないかと思えるほど競争業者が多く、いつもお客の奪い合い。また、建設会社や工務店の下請けがほとんどで、仕事をもらいつづけるために無理な値下げ要求や工期短縮にも応じていかなければいけない。

「親の会社を潰すわけにいかない」、まさにその一心だけで必死にやっていたように思います。

06自分のために生きていこう(34才の決意)

「これからは自分のために生きていこう、本当にやりたいことをやっていこう」

入社から8年、必死に会社を切り盛りしてきましたが、時は建築不況。リーマンショックなどの影響も重なって思うように業績は伸びず、「もうここまでか・・・」と諦めかけた2011年3月、東日本大震災が発生しました。数万の被災者と甚大な被害をよそに、皮肉にもこの大惨事が会社を救ってくれたのです。広範囲に渡った被害は震災バブルと揶揄されるほど私達の業界には追い風となり、傾きかけた会社の業績も復興事業に携わることで徐々に回復していきました。

本心から喜ぶことはできませんが、この震災が私達を生き延びさせてくれたのです。

そんな時、父の容体が急変しました。脳梗塞が基で認知症になっていた父は、震災がきっかけで寝たきりになってしまったのです。 認知症になっても家族で唯一、私のことだけは認識してくれていた父が私のことも分からなくなり、話すことさえ出来なくなりました。ですがそうなって初めて、父と心を通わせた本音の会話ができ、自分自身と、自分の人生と向き合えたように思います。

「親の会社を潰すわけにいかない」その一心でこれまで必死にやってきました。
しかし、その後に訪れる父の死が、前へ進めず立ち止っていた私に勇気をくれたのです。そして、「これからは自分のために生きていこう、本当にやりたいことをやっていこう」そう心に誓い、これまで少しはやってきた新築・リフォームを会社の柱と決め、第二創業を決意したのです。

07たげしは、三代目なんだぞ(繋いできた絆)

三代に渡って繋いできた建築屋の道だったのです。

第二創業を決意した時、父がよく言っていた、「たげしは、三代目なんだぞ」という言葉を思い出しました。
「お父さんの仕事を継いだら、二代目だよな。なんで、おれが三代目になんだよ?」と、子供の頃の私は、父が何を言ってるのか理解できずにいました。

しかし、あれから30年。父が伝えようとした本質的な意味をようやく知ることが出来たのです。

私のじんちゃん(祖父)は、気仙大工として、中学を卒業した子ども7、8人を丁稚として家に住まわせて働かせる、今でいう工務店を営んでいました。気仙大工とは、岩手県陸前高田市を発祥とする、東北に古くから伝わる優れた技術を持つ大工集団です。じんちゃんは、お客様から「この町一番の大工だ」と言われる、腕のいい棟梁でした。新築・リフォームを会社の柱に決めたのも、じんちゃんのような仕事をしたいと願ってきた、もう一つの理由でもありました。

じんちゃんは、大工(工務店)。
親父は、内装屋。
私は今、新築・リフォームと内装屋。

その時、親父が常々口にしていた、「たげしは、三代目なんだぞ」、この言葉がやっと腑に落ちたのです。

本当にやりたいことをやっていこうと誓った第二創業は、じんちゃんと親父と私、三代に渡って繋いできた建築屋の道だったのです。そう気づけた時、二人がずっと見守ってくれてる、一人じゃないんだと思えました。

08本物の建築屋になる

辿り着いたのが
「無添加住宅」でした。

震災前、元請会社の方がお客様に、「しょうがねぇがらクロスにしますか?」という会話を耳にした時、「オレの仕事はしょうがねぇがらやる仕事なんだ・・・」と、自分や社員、親までも否定されたような気持ちになりました。
ですが、それでも生きていくためにはしょうがない、親から託された会社を潰すわけにはいかない、そう自分に言い聞かせてきました。

しかし、そんな時でも心の奥深くで願ってきたのは、「じんちゃんや親父のようにお客様に喜んでもらえるような仕事がしたい!」という想いでした。

だからこそ、第二創業を決意した時「本物の建築屋になろう」と誓ったのです。
私が考える本物の建築屋とは、お客様に寄り添った住まい提案をする会社です。
「しょうがねぇがらクロスにしますか?」と嫌々使われる商材を扱ってきた我々だからこそ、「じんちゃんや親父のようにお客様に喜んでもらえるような仕事がしたい!」と願ってきた我々だからこそ、何が良くて何が悪いというお客様目線の住まい提案ができるんじゃないかと気づいたのです。
第二創業を決意した時どうしても腑に落ちなかったのが、親が人生をかけてやってきた内装業を否定することになるんじゃないかと思えたからです。ですが、過去の経験の何一つ無駄じゃなかった、そのお陰で今があるんだと吹っ切れた私は、お客様が望んでいる住まいとはどんな建物なのかを全力で探し始めました。

そうやって辿り着いたのが「無添加住宅」でした。キャッチフレーズは、食べられる家。建物内に一切の化学物質を使わず、世界各国から選りすぐった材料を低コストで仕入れ、金持ちだけでなく一般の方でも手の届く予算で家を建てることができるというのです。
まさに、「本物の建築屋」が提案すべき住まいだと確信しました。
8年もの間携わった内装業の経験も、不純な動機で行ったイギリス留学も無駄ではなかった、そう思えました。そして、「頑張っても報われないでいる子を救ってやれる先生になろう」と夢みた劣等生の私だからこそ、本物である無添加住宅を広めていけるんじゃないかと今は感じています。

50年後100年後の未来の子供達のために何を残してあげられるでしょうか。
今を生きる私達にしかできないことがあるはずです。たくさんの回り道をしてようやく辿り着いた「本物の家づくり」。
これに気づいてもらうことが私の使命です。

電話する

FREE

RESERVE

BOOK